
引用元:何故秀吉は家康を天下人に育ててしまったのか
https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1453468635/
1: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:17:15 ID:tjQ
255万石の領土
豊臣秀頼の後見人の座
これがなかったら家康が天下取るのはもう少し難しくなったやろ
豊臣秀頼の後見人の座
これがなかったら家康が天下取るのはもう少し難しくなったやろ
2: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:19:52 ID:tjQ
やっぱ清州同盟とかの実績で信頼してたんかな
3: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:21:02 ID:teR
左遷されたのに這い上がってきた徳川さんマジぱねーっす
5: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:24:53 ID:tjQ
>>3
左遷にしても領土増やしすぎやないか?
結局徳川は秀頼の後見人として中央の政局を支配するわけやし
左遷にしても領土増やしすぎやないか?
結局徳川は秀頼の後見人として中央の政局を支配するわけやし
8: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:28:14 ID:teR
>>5
そらなんの使い道のない沼地だったからな関東ら
むしろ整備させられるし力削ぎ落とせるしで一石二鳥と考えたんやろ
そらなんの使い道のない沼地だったからな関東ら
むしろ整備させられるし力削ぎ落とせるしで一石二鳥と考えたんやろ
10: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:31:56 ID:tjQ
>>8
いくら使い道のない沼地と言っても移封前が130万石くらいなのにあげすぎやろ、結果として全部徳川の体力になっとるし
いくら使い道のない沼地と言っても移封前が130万石くらいなのにあげすぎやろ、結果として全部徳川の体力になっとるし
11: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:38:22 ID:teR
>>10
歴史そんなに詳しくないけど当時も有名だし功績も立ててるからそれなりの褒美を与えないかんかったんやないか
でもこれ以上与えるとまずいから量はあるけど質が最悪な当時沼地の関東を与えたんやろ
歴史そんなに詳しくないけど当時も有名だし功績も立ててるからそれなりの褒美を与えないかんかったんやないか
でもこれ以上与えるとまずいから量はあるけど質が最悪な当時沼地の関東を与えたんやろ
12: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:39:00 ID:PMz
東海地方が京都に近すぎるからちょっとでも京都から離したかった&基盤である三河から移動させたかった
って理由で石高大きくなってもいいから移封したんよなぁ
個人的には新田源氏(自称)の家康をその基盤である関東に移すのは不勉強すぎやろと思うけどな
流人である源頼朝が平家倒せたのも父の基盤である関東に流されたからなんやし
って理由で石高大きくなってもいいから移封したんよなぁ
個人的には新田源氏(自称)の家康をその基盤である関東に移すのは不勉強すぎやろと思うけどな
流人である源頼朝が平家倒せたのも父の基盤である関東に流されたからなんやし
15: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:43:47 ID:tjQ
>>12
あげるのはいいとして30万石くらいでいいと思うんだよなあ
豊臣の蔵入地より多いとかどういうことや
それにいくら関東が田舎と言っても何年も開拓する期間があれば生産量がマシになることも予想できそうやけど
あげるのはいいとして30万石くらいでいいと思うんだよなあ
豊臣の蔵入地より多いとかどういうことや
それにいくら関東が田舎と言っても何年も開拓する期間があれば生産量がマシになることも予想できそうやけど
19: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:47:29 ID:PMz
>>15
家康配下は三河武士に滅亡させた武田家臣団も加えて当時最強クラスやで
領地に不満持ったら確実に反乱起こすし、まだ万全じゃなかった豊臣政権下でそんな無謀できんよ
家康配下は三河武士に滅亡させた武田家臣団も加えて当時最強クラスやで
領地に不満持ったら確実に反乱起こすし、まだ万全じゃなかった豊臣政権下でそんな無謀できんよ
20: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:49:05 ID:tjQ
>>19
書き方が悪かったな
加増分は30万石くらいでええやろと言いたかったんや
書き方が悪かったな
加増分は30万石くらいでええやろと言いたかったんや
24: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:51:26 ID:PMz
>>20
家康からしたら
「現所領安堵か、大幅な加増の上での移封か」
しか納得せえへんやろ
家康からしたら
「現所領安堵か、大幅な加増の上での移封か」
しか納得せえへんやろ
26: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:52:58 ID:tjQ
>>24
30万石加増はいい加増だと思うけどなあ
むしろ100万石以上加増の方がよっぽどおかしいと思う
30万石加増はいい加増だと思うけどなあ
むしろ100万石以上加増の方がよっぽどおかしいと思う
29: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:53:54 ID:PMz
>>26
だから、秀吉にとっちゃ100万石加増してでも三河から移動させたい、遠くに行かせたい、やったんやっての
だから、秀吉にとっちゃ100万石加増してでも三河から移動させたい、遠くに行かせたい、やったんやっての
13: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:42:31 ID:PMz
ちなみに確かに当時の関東は沼地やけど、これは逆に全国的に旱魃の場合、関東は豊作になるんやで
だから旱魃の年なら天下を狙いやすい土地でもある
だから旱魃の年なら天下を狙いやすい土地でもある
21: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:49:12 ID:xQ0
どっちにしろ、権力の継承ってのをあんまりシリアスに考えてなかったんやろ。
いつまでも自分が現役プレーヤーのつもりで。
関ケ原後に、さっそく自分抜きでも機能する支配体制の確立に
動いた家康とは対照的やね。まぁ秀吉を反面教師にしたんやろけど
いつまでも自分が現役プレーヤーのつもりで。
関ケ原後に、さっそく自分抜きでも機能する支配体制の確立に
動いた家康とは対照的やね。まぁ秀吉を反面教師にしたんやろけど
23: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:50:37 ID:lnC
>>21
その辺家康は抜け目ないな。用意周到やわ
その辺家康は抜け目ないな。用意周到やわ
25: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:52:13 ID:JKI
狸爺呼ばわりされとるけどそれぐらいの狡猾さがなきゃあかんかったやろなあ
31: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)22:58:20 ID:rtL
前田を尾張三河あたりに置いとけばよかったのに
家康と同じ警戒対象やったんかな
家康と同じ警戒対象やったんかな
34: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)23:00:50 ID:lnC
都から遠すぎると強くても天下は狙えんからなあ
島津は強かったけど天下取りの話は聞かんし
島津は強かったけど天下取りの話は聞かんし
76: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)23:45:41 ID:16t
長生きがすべて。60代で死んでもおかしくない時代なのに
77: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)23:47:49 ID:PMz
>>76
秀忠家光が50前後で死んでることを考えたら奇跡やな
70過ぎても水泳馬術する健康老人やし
秀忠家光が50前後で死んでることを考えたら奇跡やな
70過ぎても水泳馬術する健康老人やし
79: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)23:50:56 ID:xjm
牙向いてこない以上
潰しづらいしなあ
潰しづらいしなあ
82: 名無しさん@おーぷん 2016/01/22(金)23:57:38 ID:Pph
イッチのあの時代の家に対する認識が現代的過ぎないか?
84: 名無しさん@おーぷん 2016/01/23(土)00:04:05 ID:lyb
>>82
秀吉死後ならともかく、秀吉健在のうちに反乱を起こすやつなんかおらんやろ
秀吉死後ならともかく、秀吉健在のうちに反乱を起こすやつなんかおらんやろ
94: 名無しさん@おーぷん 2016/01/23(土)00:27:06 ID:MiA
天下統一したはしたけど巨大勢力残しすぎやな
ノッブのように対抗出来うる勢力は叩き潰しながら天下統一すべきやった
まあそのやり方じゃ時間かかりすぎるが
ノッブのように対抗出来うる勢力は叩き潰しながら天下統一すべきやった
まあそのやり方じゃ時間かかりすぎるが
99: 名無しさん@おーぷん 2016/01/23(土)00:36:58 ID:eyr
大大名家を瑕疵なく潰そうとしたら反発はあるやろなぁ
現代みたいな中央集権ってわけではないし
現代みたいな中央集権ってわけではないし
123: 名無しさん@おーぷん 2016/01/23(土)01:30:43 ID:eyr
まあ後年の秀吉は寿命に対する焦りもあったろうし、気前良く褒美与えて徳川家遠ざけて
豊臣政権盤石にして明に攻め込みたかったろうしなぁ
あの時点ではリスクより時間取ったんやろうな
豊臣政権盤石にして明に攻め込みたかったろうしなぁ
あの時点ではリスクより時間取ったんやろうな
124: 名無しさん@おーぷん 2016/01/23(土)01:34:36 ID:eZn
>>123
ちょくちょく思ってるんやけど、秀長死んでから秀吉おかしくなったんちゃうかな?
もしくは秀長がおかしい秀吉の矯正をしてたか
朝鮮出兵も秀次事件も、それまでの秀吉の方針に比べておかしい
更に言うと家康を秀頼後見にしたのも
ちょくちょく思ってるんやけど、秀長死んでから秀吉おかしくなったんちゃうかな?
もしくは秀長がおかしい秀吉の矯正をしてたか
朝鮮出兵も秀次事件も、それまでの秀吉の方針に比べておかしい
更に言うと家康を秀頼後見にしたのも
1001: 名無しさん@大艦巨砲主義!
2011/7/24(日) 12:20:40.20 ID:milio
豊臣が負けたのは豊臣が勝手に弱ったからだ。
江戸はそこまで田舎ではなかったんだからね
家康の伸び代が秀吉の想定を遥かに超えていた
ただそれだけ
官職だけ見ても
臣従前…三河守 →秀吉死去時点…内大臣
と変化してるから、秀吉が育てたというのも間違えてない。
だから関八州250万石で東国の要に据えたのは当時の常識としてはそんなにおかしくない
ただ秀吉の死や若年の秀頼やらで中央政権が弱体化した結果、御覧のあり様だけどな
官職だけで天下取れるのならこれほど簡単な話はない
あの時代、官位を貰うにも活かすにも実力がいる
要は秀吉からそれだけの官位を与えておかなくてはならない相手と思わせる下地があった訳だ
そして家康の下地を作ったのは秀吉ではない
もう無理なんで民の為にも家康に天下とってもらう説(秀頼は生存させてもらう)
と言うか、家康には秀頼の後見人を務めてもらって、その上で秀頼成人まで見てもらうつもりなんだから、そりゃ力削いじゃ駄目でしょ。
実際、秀吉存命時点で家康よりも信頼できる戦国大名なんて居ないぞ。
義理堅さでは群を抜いているし、姻戚関係も結んでいるんだから。
別に捨ててはないだろ
家康なんか本妻ぶち殺してるけど
後見人は前田利家な
小田原征伐の時に関東武士のあまりの弱さに城を落としても手柄とは認めないと言ってるくらいだから大したことないよ
関ヶ原でも前線で戦ったのは福島正則率いる尾張兵だし
内堀埋めたのは家康が約束違反しただけ
「江戸」に限定すればその通りだけど、関東平野自体は縄文時代から肥沃な土地だから全体的に人口は多かったよ。
江戸時代の江戸は都市人口が増えた事で、関東で初めて大消費地となっただけ。
今川所属→桶狭間→今川領侵攻
織田所属→本能寺→織田領侵攻
義理堅い…?
関東ロームのおかげで痩せた貧しい土地
でもイチャモンつけて攻めるには強大になりすぎていたし
スキもなかったんだろうな。
貴方の言ってる事は正しいけど、秀吉が育てた部分があるのは事実。もちろんそれも家康の実力があってこそ。
家康は渋とく、地震などもあり運もあったんだネ。
潰したかったらいつでも潰せたけど、国内で争うより国のために朝鮮征伐選んだのよ
その平地と人口が重要だろ。
埋め立てで資材貯蔵能力が向上し労働力が増え、交通を整備して海路が発達、そこまでたどり着いてようやく大阪の覇権を奪う所まで来れる土地。
ポテンシャルはあるが活用するには金と時間かけて整備が必要だった。
西軍の大将は毛利な
最近は最初から堀全部が和睦条件だった説が有力だよ。
いや有力なのは通説通り騙し打ち
秀吉は秀頼のことが超心残りで死んだと思うよ。
それはぶっちゃけて言えばNO.2が残されたNO.1の子供を
内心ではどう思ってどう扱うかよく知っていたからだと思うけどね。
税金安い 統治もかんたん あたまいい
秀吉が結局懐柔策で織田信雄を丸め込んで家康に無断で講和に応じちゃったので
家康側が大義名分無くなったし。秀吉の妹やら母まで送り
しぶしぶ大阪城に行くと今度は秀吉自身が家康に頭下げて
頼むと懇願しちゃってるからね。
桶狭間から遠江侵攻までの空白期間で一体何があったでしょうか?
本能寺の変で甲信の織田領を空白地帯にした人は一体誰でしょうか?
加えていうなら、関ヶ原から大坂の陣までの14年間、統治機構を失った豊臣家の面倒をずっと見続けてきたのは一体何処の誰でしょうか?
捨ててない。最期まで秀吉の正妻は高台院だった。
てか移封された時は居城が小田原じゃなかったっけ?
家康が江戸に目をつけて開発しただけでそもそも旧北条領という超豊かな土地を与えられてた。
それは自分がそうだったからそう思ったかもしれないが、少なくとも秀吉から見た家康は律儀者だから裏切るとは思わなかっただろうね。
てか家康は征夷大将軍に任ぜられて独立するまでは裏切ったとは言えない。明確な裏切りは秀忠へ将軍を世襲させた事からかと。
要は秀頼が大多数の部下に後継者だと認められなかったからNO.1→NO.2へ縦じゃなく横に権力が移動した
織田の時と一緒
>>潰したかったらいつでも潰せたけど
↑
それで潰せなかったのが小牧長久手の戦いじゃん。
もう少し秀吉が遅かったら北陸まで塞いで、関東は固より東北も家康が手にしていただろうね。
まあ、実際は関東へ領土が転封された訳だけどね。
決勝で負けたトータルテンボスの人が言ってたんだけど・・・
決勝のトリをを譲ってくれと頼みに行ったが「予想外で準備が出来てない」
「このままじゃあ漫才がちゃんと出来ない」といわれて・・・
「じゃあしょうがねーな」って諦めたって・・・
これって凄いことだよね。勝つか負けるかよりも・・・
ライバルが「ちゃんと漫才が出来る」ことを優先したんだな。
つまりは競合者である以前に共演者であったんだな。
気前の良い太っ腹な様に見せかけて既存の基盤から切り離し政治的にも距離を取らせる事もでき統治してたわけじゃないからツテもコネも無い状態だから統治や治水に何があればそれを理由に処罰も出来るからマジで家康が上手くやったとしか言い様がない
まぁ、東北とかいう日本の第二火薬庫(第一は九州)が炸裂した場合、
家康なら矢面に立って沈静化出来るという判断もあった。
だから力を与えたし石高を検地ではなく自己申告制という好待遇にもした。
秀吉の誤算は自分亡き後、権力を分散させたおかげで家康の対抗勢力が生まれ
豊臣家は分裂し、関ヶ原を経て結果家康に権力が集中した事だな。
何から何まで間違いだな。
フランスではなくドイツ。
しかも、西軍勝利説は今では出所不明で怪しいとされてる。西軍の大将は毛利。光秀とかどっから出てくんの。
もうちょい北の群馬・栃木ら辺りなら身動き取れず天下諦めてたかも
出来てしまったからね。関ヶ原までは家康を軽い神輿と考えて担いでいた
福島や黒田といった若手も、それ以降は考えを改めざるを得なくなった。
あの時点までは豊家の忠義者だっただけに、結果お膳立てしてしまった
三成の功罪はとてつもなく大きいわな。
育てたのは秀次、晩年に秀頼にそうしようとした
関東は太閤検地時点で全国地方別No.2の石高だし、その500年前の平安末期に頼朝らが天下をとる原動力になった実績がある場所で軽視するのはありえない
清盛や室町幕府の歴史は知ってたろうが、当時はおそらく万能感に近いものを持ってたんだと思う
だから朝鮮の役みたいな大事業も短期間でやれた
小田原が当時関東随一というか、唯一の城下町を抱えてたから、家康はそこを考えてた。
江戸を薦めたのは秀吉だったという話があるね。小田原は津波にやられるけど、江戸は湾の奥にあって港を造りやすい。
当時は沼沢が多くて良い土地とは言えなかったけど、伸び代は十分あった。秀吉は地勢眼も天才的。
出た「戦術的に勝利したから」w
戦術的に、局所的にしか勝ててない時点でゴミなんだよなあ
でも地震直撃で徳川潰しなんてやれなくなった
家康が「持っていた」と言えなくもないが、実力的な話ではない
実際、織田信雄は、拒否したわけだし。
領地に対する愛着というのは、江戸時代の比ではないので、よくできたなという話。
織田家の家臣とかで、急拡大したようなところ(領地に土着してない場合)以外は、よほど加増しないと無理。
実際には、北条の残党とかもおり、簡単にはいかないと思われていて、逆に言うと、徳川家くらい腹の据わった大名じゃないと無理という認識だった。奥州仕置きとかでは、反乱が続発していたし、肥後の国人一揆とかでも、佐々成政が失脚したりしたわけで。
堀の話って当時の一次資料になく後世から出てきた話で当時の工事の資料では何ももめごとは無く内堀の作業も完了してた
ってとこまでは知ってるけど、その後さらにだまし討ちの証拠とかあったの?
まさに運も実力の内ってやつ。
>>1
信玄時代の甲信より、氏康時代の相武のほうが豊か。
惜しむらくは、領内に金山が無いこと(伊豆金山開発は江戸時代)。
上総・下総は、鎌倉時代から開発されてる豊かな国だし。
文化的には遅れていても、コメの生産力は、東海三国より大きいよ。
家康が豊臣から離れたからに決まってるだろ。三大老が余計な事しなければ家康が豊臣の守護神のままだった。
幸運は所詮キッカケで、幸運を活かすには実力が必要だからね
宝くじが当たったからって、一瞬だけ羽振りが良くなっただけで終わる人間に実力なんてない
これ
その後の歴史を知ってる俺らからすると、秀吉の家康に対する扱いは「悪手」と感じるかも知れないけど、その当時での判断では「最善手」だったんだよ
後世の人はすぐに「平清盛が源頼朝を流罪で済ませたのってアホだよな。ちゃんと禍根は断っておけよ」みたいな結果論に飛びつくけど、その当時・その瞬間・その当人じゃないと分からない「機微」とか「綾」ってのがあるんだから、軽々に歴史上の人物を批判するべきじゃない
登場人物全員関西だから関東の事情よく知らなかったのかもね
確かに秀長死んだら諸大名の統制取れる人材は家康以外居ないわ
勘違いしてるが、秀頼は豊臣の後継者として認められているよ。ただ天下人としては家康の方が上だっただけ。
>>62
三大老排除して、北条執権体制の再現だろうな。
豊臣家に秀頼の血を残すかな?(千姫の血筋ならまだしも)
>>49
上杉景勝を伊豆・相模・武蔵に転封して、徳川家康を越後・上野・下野・信濃の一部転封か?
家康は吾妻鑑の愛読者だから北条執権体制も当然理解していたと思う。
その場合、秀頼と千姫の男児にまた徳川の娘を嫁がせ…、の無限ループを狙ったと思われる。それか高台院の親戚の系統に切り替える手もある。
周囲から信頼を得て押し上げられる、それは君主の才覚だったのだろうな。
利長が謀反人になった(土下座して許してもらったけど)のだから家康が代行するのは当然。
秀吉は利家と家康の二頭体制を望んでいた様だが。
宇喜多と毛利と上杉の問題児
前田と徳川は安定
とにかく子供作ってバックアップ作成を欠かさなかったり、後継者の秀忠とは別の場所に居を構えたりと信長や秀吉から得た教訓も生かしてる(信忠は信長と一緒に京都にいたせいで本能寺の際に自刃、家の柱を失ってる)
別にあの時点で秀吉を打倒出来るだなんて考えてないかと。そりゃ隙があれば見逃さないだろうけど、『兵が分散したところを突かれて首を取られてしまう戦国大名』なんていないだろうしw
一撃与えて秀吉に自分を軽く見るなと思わせれば成功なんじゃないかな
兵力差がある不利な状況なら一矢報いるだけでも周囲からは評価されるだろうし
どんな天才かといえば、死ぬ間際まで学び続ける事をやめず、自他の失敗を反省し続けた天才
今日も社会情勢は平和で、俺らは十二分に金を稼げて、平穏無事に生活できているのだろう。
あれは信長憎し娘も憎しが嵩じすぎて、武田と通じて家康をコロコロし、自分に逆らわない信康にあと継がせ、
信長を背後から襲うというとんでもない裏切りをしようとしたからな。
結局信長のせいと擦り付けたけど、あれって三河信康と浜松家康の派閥が分断されるっていう、かなり重篤な裏切りだったんだぞ。
本妻と言う立場ででこれをやらかしたんだから、そら処断厳罰以外の選択肢はなかろうて。
丁度センゴクでやってるからこんな4年以上前のスレをわざわざ取り上げて記事にしてるんじゃないだろうか、逆に。
信康事件での武田内通説は近年疑問視されつつある
三河衆と遠江衆の対立や、単純な親子間対立が原因であるとの見方が強まっている
ついでに言えば、信康事件における信長の「家康に任せる」発言は、「うちの都合で処理するとと徳姫が未亡人になるけど、やっちゃって構いませんか?」と根回ししにきたことへの返答だとする説まで出てきた
まぁこっちも決定的な一次資料がない為説の域を出ないけど
歴史などそういうもの。後でああだこうだ考えるが、実際はそうせざるを得ない状況や理由があったりする。
実際関ヶ原でああも豊臣恩顧の大名が徳川につかなければ(付くような状況を作り出せなければ)、徳川の天下はあんなに早く転がり込みはしなかった。そういう戦力差と地政学上の大名配置だった。
その点を見ると、秀吉死後の徳川のその不利を覆す謀略・陰謀がいかにすさまじかったともいえる。これはつまり武力でなく、陰謀で豊臣VS徳川の単純な戦力差状況をひっくり返し天下をわが物にしたようなもの。
もともと家康の短所・欠点はこのような謀略力(ゆえに城攻めがヘタと言われた)で、長所は学習力(で短所を補う力をつける)といわれる。
一方謀略力(当時は調略と呼ばれた)の天才は秀吉で秀吉はこれで天下を取ったようなものだが、秀吉死後の家康の謀略力は秀吉のそれを学習したがごとく、武力決戦の前に勝敗を謀略・陰謀で決定づけてしまっていて、大坂の陣までの豊臣滅亡まもで含めてみると本当にすさまじいものがある。あまりにも凄まじ過ぎて、後世の家康評がよくないものとなった大きな原因
もともと関東は肥沃な土地、上杉とか十万の大軍動員してる
家康スゲーするために田舎にされた
それを言っちゃ・・・皆わかっていて楽しんでるんやで
秀吉は、自前の家臣団がいないのに少ない身内を処分したからだよ。
元々、今川の仕事だし。
意地悪で九州と東北の飛び地へ転封させたい
秀吉が死んでから跡目を継がせるより新体制の基盤を作る時間的余裕もできるし、秀吉が健在であれば迂闊に反乱も起こせないし。
共産主義スレタイと同じぐらい、いや、例えば今の社会の理想の政治形態を議論するなら、豊臣秀吉とかいうクソより、スターリンについて学ぶ方が、よっぽど意味があるんだがね。
小学生の歴史の授業で暗記させられる害悪以外のないものでもない。
そも家康が秀吉の晩年期から虎視眈々と天下を狙っていたというなら、その事業は足掛け20年近くにも及ぶ壮大な陰謀となる
しかも、人間50年と言われた時代、既にいつ死んでもおかしくない年齢で、決してスキを見せず、焦って先走ることもなく、転がり込んだチャンスは決して逃さず、そして自分の死期を勘定に入れていたかのような、死ぬ直前になっての大坂の陣
知略云々よりも精神力、胆力がおよそ常軌を逸している
これら全て家康が陰謀によって絵を描いたとするならば、それは世界的にも類を見ない程の成功を収めた空前絶後の大謀略だ
手付かずの大森林が広く残っていた関東は、云わば大油田みたいなもん
そりゃ本腰いれて開発すれば発展しますわ
秀吉はあんまり気付いていなかったんじゃねーかな
内堀は大坂方で埋めることになっていたけどちんたら全然進めないので、徳川方から人夫出して手伝っただけやで
当時は、大坂方からも抗議とかはなく、自分達が受け持つ工事も徳川方が手伝ってくれて協力してやっていたって一次資料ではそうなっとる
徳川方が約束破ってー、てのは後世の作り話や
そこを改めないとまるで意味がない
秀吉は個人としては優れていたが家としては家康に比べて遥かに劣ってた。
家臣団が家についてるのではなく秀吉個人についていたから秀吉いないと
その一族は見捨てられてしまったというだけの話。
徳川家臣団は徳川についてたわけで家康いなくても忠誠が揺るがない。
家康の謀略はあり得ない。
人間50年という信長の口癖を理解してたから若い時から
信長と一緒に無茶やってきた家康に最初から天下獲りの
謀略など立てようがない。
武田に殺されずいかに生き延びるかだけが課題の大名で
あったことをみんな忘れて結果論で語ってるだけ。
秀吉に対して家康は評価高かったと思うし嫌ってもない。
ただ秀吉に似ても似つかない息子に会った時に托卵され
家を乗っ取られたな秀吉はと思ったことはあるだろう。
家康は種無しと言われた秀吉の子と思ってなかったはず。
平将門だけの話じゃなくて鎌倉時代は反乱祭りでずっと内戦やってた、室町時代になってさらに悪化
後北条氏が支配できたのは神奈川中心に関東南部の一部だけだからな?
関東平野全体を今に続く日本の中心地として見事に治めたのが家康の最大の功績だ
秀吉も含めて誰もそんなことできると思ってなかったんだよ
秀頼の出生についてどうこう言う人が多いけど、DNA鑑定もないんだから秀吉が実子と宣言すれば誰が父親だろうが秀吉の子。
そして秀頼の唯一の外戚が徳川。大老家康的には秀頼が秀吉の子である方が都合がいい。
そして徳川が独立した後も秀頼の出生について徳川がどうこう言った事はない。徳川的には秀頼の出生なんて些末事。
その場合も秀頼が邪魔になるんやで。秀頼を社会的に抹殺しないと必ず秀頼を担ぎ出す奴が出てくるからな。
秀頼誕生が全てを狂わせたんや。
秀吉存命中は三河の律義者だと本気で思っていたでしょ、ふつうにね。
信長に卑屈までに律義に仕えていた。
同盟とは名ばかりの属国、嫁さんや有能な後継ぎ殺されても忠義は変わらず
大名の不行跡も秀吉にとりなして恩を売り、秀吉と諸大名の間のクッション役としてかなり人望もあり。
豊臣恩顧武将も関が原は三成より律義者の内府殿に味方した方が秀頼様の為になると本気で思ってた節がある。
家康にしても秀頼滅ぼすのに15年、かなり譲歩や温情かけて生き残る道を用意していたのにかかわらず自滅したのは
豊臣側に問題がある。(家康の家臣団は早く滅ぼしたくて歯がゆかった15年だと思うよ)
秀頼の出生なんて大した意味はない
家康ぐらいになると仕えるに足る主としての力量があるかないか
秀吉が信長に仕えても信雄に仕えなかったのと同じ構図
>嫁さんや有能な後継ぎ殺されても
大間違い、内乱直前になったので家康が処分した。
ただ信康は信長の義理の息子(娘婿)なのでお伺いを立てただけ。
というかそんなド辺境に名将・太田道灌が城を築きはしないし、その太田氏から分捕った北条氏にしても重臣級+北条家でも屈指の軍団を配した挙句、最終的には隠居の身とはいえ北条氏政自身が城主になったりはしない。
そもそも、その前からいた国人の江戸氏は「関東一の金持ち」といわれるほど地理的要因がいい。
近江京、木曽義仲、源頼朝、足利尊氏、三好政権、豊臣政権
中国王朝がいつも北方からやられるのとおんなじだよ
なにかあるのかね
ヒデヨシガー
ダイトウアセンソウガー
ニホンオワルガー
どれだけの犠牲を払ってでも徳川家を柴田勝家みたいに磨り潰しておけば歴史が変わってた
直接対決で叩くチャンスはあそこしかなかったんだもの
それ以降一切家康は尻尾を出さなかったしスキを見せなかった
あそこが転換点な気がする
北陸は京に近すぎる
飛ばすなら津軽か長崎か日向あたりまで飛ばさないと
結果的に同じようなことになっとるな。
家康だってやっているんだが…というか秀吉の場合は愛情はともかく寧々を秀吉の正妻として死ぬまで立てていたけど家康の場合は義元が桶狭間で戦死して独立した段階から半ば以上に切捨てていたけど。
事実だけ見れば家康が権力掌握するまでの道引いてやったまであるレベル
それほど警戒してなかったというのが実情だろう
江戸の街造りと治水をアッサリやってのけたんだよ。
あと、その街造り・治水事業を口実に朝鮮出兵参加を断られ、
国力消耗させられなかったのもでかい。
それならそれで淀君にしっかり言い聞かせておかなきゃダメだよな。まぁいくら言ったところで秀吉の死後にそれに従わなかったかもしれないが
それができたのは信長と秀吉、ちょっと下がって家康くらい
江戸の周辺に関しては、あそこは拠点の一つに過ぎなかった。江戸城の周りは沼沢地だったそうだけど、当時はその方が城を
守り易かった。城下町を造る事は考えてなかったから。
秀吉は小牧長久手で屈服させる事が出来なかった。これが全ての始まり
自分の死後に政権奪取の野望剥き出しになるのを、ある程度予想してたとしても十年じゃ無理だろうし、その頃は死の淵だろうと思ってたんじゃないかね。
岐阜城陥落で輝元がヘタれたのが悪いんだよなぁ。
次男三男の織田信雄、織田信孝は秀吉に攻め滅ぼされた。
中国大返しが「信長の仇討ち」だったなんて今じゃ誰も思わんでしょ。
北条家が頑張ってたんだけど、ラッパという厄介なテロ組織をつくってしまった。どれだけ厄介だったかは、のぼうの城でも見るといいよ。
桃山時代は、欧州列強の他にロシアも海外進出をしていた。
このロシアが北海道から東北地方を狙ってた。幸いな事に、当時のロシアは極東アジアへの軍展開能力が乏しかったんだけど、将来はどうなるか分からない。なので、関東に強力な大名を置く必要が増してたんだよ。独眼竜とかいううつけは農地開発だけは良かったけど、軍事ではからっきしの無能だったからね。
結論としてはロシアが南進し始めたのが原因
信孝は織田家の人間じゃなくなってたし、信雄は生きてて家康の旧領を貰う程厚遇されてたよ。信雄が拒否って改易されたけど。
三法師(秀信)を大名にしてやってるから織田家を守ってはいる。ただし秀頼は秀信を改易した。
家康は当時の侍にしては血を重んじる傾向。
織田の血を徳川に入れることに拘った人間。
このうち、友であり元々織田家中で共に戦っていた前田が一番信用できる
次に共闘回数が多く(金ヶ崎、姉川、長篠etc...)互いに良く知っていたのは徳川家康だろうね
上杉、毛利は元々敵方だし宇喜多は若年だし隆景の代わりみたいなもんだからね
前田が倒れたら次は徳川ってのは妥当だし、豊臣恩顧の武将にとってもこの大大名二家は別格だっただろうよ
と言うか、秀吉死後の豊臣政権を実質運営していたのって、家康だよね。
>信長に卑屈までに律義に仕えていた。
同盟とは名ばかりの属国、嫁さんや有能な後継ぎ殺されても忠義は変わらず
家康が信長に従属してたのは信長晩年だけで、それ以前は結構勝手やってるよ。特に武田との不仲を気にした信長からの仲裁も完全に無視してたし。
嫁さん・息子に関しても「信長に言われたから」と逆に信長を利用して敵対者を排除した感がある。
>家康の家臣団は早く滅ぼしたくて歯がゆかった15年だと思うよ
特にウズウズしてたのは秀忠だった模様。
上杉ってどの上杉だろ?
謙信なら越後が本拠地だし発言がアバウト過ぎるな。
関東って家康が整備するまで水害の多い土地だったし、家康が関東を整備して増やした石高も秀吉が与えたものだと言いたいのかな?
そもそも今川所属って、自分の意思で所属していた訳で無く、三河地方を今川の勢力に組み込む為に、人質だった家康を今川の意向で駿河に連れてきてただけじゃないか。
今川は家康の主君じゃねぇぞ。
取り敢えず関ヶ原は西軍の大将の毛利輝元が駄目すぎた。
家康と輝元の行動を比較すると解りやすいよ。
1560年の小田原攻めだと思われ
成田長泰の烏帽子叩き落してご破算になったやつ
名目上、往路は上杉憲政軍、復路は上杉政虎軍ということになるのかな
最近の研究では関白秀頼公は為政者の素質も大きかったとわかってきたそうです。関ヶ原と大坂の陣で出陣しなかった、出来なかったのは徳川内大臣の作戦勝ち。又、豊太閤殿下は淀殿を増長させてしまいましたが、豊太閤殿下はあれでも北の政所を大切に感じてたことや、北の政所さまも豊太閤が亡くなられた後も意外にも愛想尽かしするでもなく、深い愛情で繋がっていたことは、どうやら事実の様です。ご参考になさって下さいましたら幸いです。
よく関東は石高も人口も多い恵まれた地だと思ってる人多いがそれだけ余所者が統治者になるのは困難だということも頭に入れてから秀吉が家康を関東に移した事を評価して欲しいな