
引用元:日本の城は戦闘に使わない、馬から降りて戦う、主要武器は投石←こういうの
https://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1586535005/
1: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)01:10:05 ID:mTn
ただ戦国落としたいだけだよな?
2: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)01:14:02 ID:hTz
防衛戦って戦闘か?
4: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)01:18:28 ID:mTn
>>2
戦国中期まで日本の城はあくまで屋形で居住用で
城とは別に砦を築いて戦ってたらしい
戦国中期まで日本の城はあくまで屋形で居住用で
城とは別に砦を築いて戦ってたらしい
5: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)01:19:10 ID:gZh
そら石は殺傷力高くてタダみたいなもんやし
6: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)01:19:11 ID:6wG
そもそも戦国期の合戦なんていまだにハッキリしたことわかってないやん
8: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)01:19:56 ID:2zt
城まで近づけないようにするのが砦では?
16: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)01:40:02 ID:TZc
馬はポニー
刀傷じゃ死因の2割程度
とか
刀傷じゃ死因の2割程度
とか
17: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)01:44:16 ID:mTn
>>16
逆にサラブレッドのほうが重さに弱いんよな
逆にサラブレッドのほうが重さに弱いんよな
18: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)01:45:24 ID:Is1
アジアの馬は足が太くて頑丈やからね
19: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)01:48:48 ID:gZh
どう考えても戦場でサラブレッドとか使い物にならんやろ
23: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)06:28:24 ID:h9E
>>19
サラブレッド自体は軍用馬やぞ
サラブレッド自体は軍用馬やぞ
30: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)08:50:34 ID:ljE
>>23
BS-TBSでサラブレッドは速いけど
鎧兜着て武器持ったらロクにスピード出なくなる
反対に在来馬は60キロとか出ないけど
武装した人が乗っても大してスピード落ちないってやってた
BS-TBSでサラブレッドは速いけど
鎧兜着て武器持ったらロクにスピード出なくなる
反対に在来馬は60キロとか出ないけど
武装した人が乗っても大してスピード落ちないってやってた
22: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)02:08:46 ID:6yD
戦う前に
やーやー我こそはー
って言うかボケ
やーやー我こそはー
って言うかボケ
41: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)08:57:39 ID:ljE
>>22
それは当時の報償制度が原因
当時は合戦しても成果出さないと経費も出ない成果主義
で、上から派遣された軍管って人が手柄を上に報告して
成果に合ったご恩と呼ばれる報償がもらえるけど
軍管は名乗りで誰が戦ったか判別してたから
名乗らないとご恩がもらえない可能性があった
それは当時の報償制度が原因
当時は合戦しても成果出さないと経費も出ない成果主義
で、上から派遣された軍管って人が手柄を上に報告して
成果に合ったご恩と呼ばれる報償がもらえるけど
軍管は名乗りで誰が戦ったか判別してたから
名乗らないとご恩がもらえない可能性があった
24: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)06:30:19 ID:2b7
江戸時代の城をガチ攻城戦に使ってた思ってそう
25: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)06:32:34 ID:6yD
日本は城壁がなかったとかいう俗説
27: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)06:40:09 ID:9Jn
そもそも合戦で実際は2割も死なんらしいやん
28: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)08:46:39 ID:h9E
>>27
いやおめえ、30人のクラスで合戦に行って
6人死んだらかなり一方的な惨敗ちゃう?
いやおめえ、30人のクラスで合戦に行って
6人死んだらかなり一方的な惨敗ちゃう?
32: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)08:53:05 ID:ljE
>>28
当時の農業は人手がいるから戦死者出すと痛いんだよな
あと、織田軍以外は冬の合戦とか多いけど
農閑期以外は農業が忙しくて合戦どころじゃない
当時の農業は人手がいるから戦死者出すと痛いんだよな
あと、織田軍以外は冬の合戦とか多いけど
農閑期以外は農業が忙しくて合戦どころじゃない
33: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)08:54:01 ID:mDy
砦と城を一体化して使い始めたのが信長だった可能性みたいなのNHKで見た記憶ある
35: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)08:54:54 ID:UQo
戦闘に使わん城にあんな色々つけるか?
36: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)08:55:36 ID:0py
砦は砦である訳やな
納得や
納得や
46: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)09:00:49 ID:1l8
馬はポニーっていうけど今の牧場にいる奴らと一緒にするなよ
75: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)09:18:28 ID:mIC
馬から降りて戦うはあるかもしれんね
まんま秋山好古の戦術やん
まんま秋山好古の戦術やん
81: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)09:22:31 ID:ljE
刀は戦場では戦闘には使わない
ほぼ相手の首を落とすのに使う
女の武道のイメージ強い薙刀だけど戦国時代には男も使ってた
今川義元も薙刀の名手だったらしい
江戸時代以降、女性が使ったのはむしろ
女でも武装した男と戦える優れた武器だったから
ほぼ相手の首を落とすのに使う
女の武道のイメージ強い薙刀だけど戦国時代には男も使ってた
今川義元も薙刀の名手だったらしい
江戸時代以降、女性が使ったのはむしろ
女でも武装した男と戦える優れた武器だったから
84: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)09:23:40 ID:h9E
>>81
弓矢ってなんか舐められガチやけど、
実物のヤジリみたら「高速で飛んでくる包丁」やからな
そら矢で戦いますよ
弓矢ってなんか舐められガチやけど、
実物のヤジリみたら「高速で飛んでくる包丁」やからな
そら矢で戦いますよ
85: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)09:24:08 ID:rO4
>>84
あんなもんが降ってくる中突撃とかムリムリ
あんなもんが降ってくる中突撃とかムリムリ
89: 名無しさん@おーぷん 20/04/11(土)09:25:11 ID:6yD
>>85
しかも毒塗ってあるからな
しかも毒塗ってあるからな
オソマを鏃に塗って射るけどな
んなことないやろ、
籠城されたら落城させるまで戦うこともあったやろ、
まぁ、大きな戦が、野戦になるのはしかたないけど。
ルイス・フロイスの記述が残ってるから、てのと当時の馬がポニーれべるだから、てのが(ほぼほぼ鈴木真哉の説く)理由だけど、、、
まぁ当時の「乗り入れ」とか「乗り込み」っていう騎馬戦闘用語が残ってるし
たとえば信長公記だけでも天正9年の馬揃えでの騎馬集団でのデモンストレーションとか
銃対策に爆竹鳴らしての乗馬訓練とか戦闘に馬を使う前提の訓練の様子が書かれてるわけで、、、
単純に馬列そろえた突撃がなかった(これは西欧でも近代になってから)ってことは確実だけど
それがそのまま、騎馬戦闘はなかった(下馬してた)てのとは同意味ではないわけで、、、
日本の城が戦闘に使われない、つーのも逆じゃねぇのかなぁ、、、
戦闘時に山城こもって普段はそのふもとに住んでた、てのが鎌倉時代からの日本の習慣よねぇ
徴税用の上遠野城とかのこってんだし、、、
どれも凄い要塞だぞ
城と天守閣を館を間違えている?
戦国時代、多くの城は重要地を守るための山城とかだよ。勿論実用的なもので合戦も多い。山賊じゃないから日頃は麓の自宅に住んでいる場合も多いけどね。
そんなんいちいち記録に残ってないだけで国境から本城までは
いくつもの砦やら城があったケースがほとんどだろう。
山城はもとは館は別に有って戦闘の時だけ籠った。
馬上打物とかもあるしね
むしろ戦国時代とかは城が戦闘向きすぎて館と使い分けしてたのだが
馬使わない説→時代や地域によって乗馬戦闘をあまりしない勢力があった、歴史上の騎兵大国や近代以降の軍のような大規模・組織化された騎兵部隊は多分無かった、くらいの言い方なら合ってるが騎兵各騎を直属の徒歩従者が囲んで戦うしか考えておらず騎兵戦術の発想自体無かった、はかなり怪しい、一番酷い馬が小さくて戦えない説は100%あり得ない
騎兵部隊による突撃や撹乱は普通に史料や軍記で描写されてるし馬は普通に戦闘に使えるレベル
つか徳川による統一後、城は一国一城に制限されたから残ってても破却されたんだよね。
ある城郭研究家が言ってたけどまだ見つかっていない山城や砦は日本中に無数あり、総数は未だにハッキリしていないと言ってるくらいだからな
そしてさらに明治の廃城令で軍の敷地にならなかったものはほぼ全て解体、金持ちの道楽で残った僅かな例を除いて更地にされたなからな。
かすり傷レベルでも記載される・死因は含んでいない・報告を上げた部隊は壊滅してないって条件なので当たる確率は高いが遠ければ致命傷にはなりにくい飛び道具が多いのは当然だし、部隊が敗北・壊滅した場合はどうなのかについてはあまり参考にならない
これがいつの間にかあらゆる戦場での死因まで含めた話として広がっていき占める割合が少ない刀は役立たず、そもそも戦場で使ってないんだ!&投石が一番強いんだ!(多分同じ飛び道具でも弓や鉄砲が強いって言うより素人目にはインパクトがあるから)って逆張り尾鰭が付いていった
幕府の目を気にして陣屋にとどめていたようだな
※3
大便を鏃に塗れば、毒矢になる。モンゴル騎兵が欧州で使用した。
大便を井戸に投げ込めば、その井戸は飲み水として使用できなくなる。
関東大震災で井戸に毒を投げ込んだヤツを、「緊急避難・正当防衛」のために傷つけるのはやむを得ないと思う。
貴族の城館は城を改修して住居用にしたもので、それこそ戦闘なんて考えられてないものだと思ったほうがいい。
陣屋と城は大名の規模で線引きされてた。
本当に惜しいことをした。保存してたら今頃、観光の目玉になっていただろうに
戦闘に使われてたら焼失して残ってないはずと言いたかったのかな?でも、それはたまたま戦闘が無かっただけだよ
源平合戦や元寇の時から騎馬戦術があるし、武田の乗り崩しとか有名なのにどうしてそういうデマが流れんのかねぇ。
城に関しても小田原城とか上田城とか有名な「城に引きつけて反撃作戦」やってる例がいくらでもあるのに「城は戦闘に使わなかった!」ってアホかと。
だから城と館と天守がごっちゃになってない?
「普段は住んでる館は戦闘に使わなかった」ならわかるけど、「城は戦闘に使わなかった」だったら山城はなんやねんって話になるやろ?
騎乗からの攻撃が無かったとは思わないけど
蹄鉄を付けないから長距離移動に難があるし、躾もしっかりしなかったから戦場で制御できなかった可能性も高いんよねぇ
昔の日本人って人間以外の生き物に甘かった記述が結構あるしねぇ…戦場に連れてくと載せてる人を落とすくらいはやりそうなんねん
馬上で太刀や槍をぶん回すじゃ無くて、自動車で歩行者を跳ね飛ばすような使い方ならワンチャン有りな感じ
馬に乗って戦わないんだったら、馬防柵(拒馬)という構造物はなんのために置くのかな?って思う
蒙古襲来絵詞で竹崎季長が騎兵の戦いやすい場所まで元軍が来るのを待ってから一斉に騎射を仕掛けるっていう騎兵が組織的に機能する前提の作戦だったって言ってるしその後季長が白石通泰に助けられる場面でも白石勢100騎は普通にまとまって攻撃仕掛けてる感じだから少なくとも実戦でよく使われた単位と思われる数十~百騎ずつ程度の集団なら戦場で制御できないってのはさすがに無いのでは
特に鎌倉時代までは騎兵の比重が後の時代より大きいから頼みの騎兵がロクに制御できないなら上記の文永の役の野戦で元軍がもっと押せてたと思う
当然武士たちも似たような感じで矢戦等では降りて、必要なときは乗馬して戦っただろう
城自体はすごいが城下町の名残や堀のあとが残ってる場所ならそこも回ってみてもらいたいわ。
大阪城は壮観だがそれ以外に大阪市内の堀のついた地名は堀のあった跡地だし地図をみるといかにすごかったかわかる。
二条城も石垣みると立派なもんだし今は一の丸が修復中だが攻める側からしたら侵入できる場所は限られるから厄介な砦には違いないだろうな。
得物論争でもそうだが状況に応じて使い分けていただけの話
鏃に糞尿を塗ればそれで傷ついた相手は破傷風になるんだよ。
アイヌの毒矢とは同じ毒でも性質が違う。
大阪城の豊臣大阪城と徳川大阪城の違いとか大阪城にいけば復元模型見れるがおもしろいよ。
両方とも各方面で郭が重なるようにして、横矢をかけられるようにもしているのは共通しているけど、素人目にも明らかに徳川時代の方が洗練されていて、縄張りも進化しているんだなあって分かるよね。
フロイスの記録も「私が目撃した戦場では下馬していた」の後に「もっと東に行けば騎兵突撃する者達も居るそうだ」って続きが有るんだよね
当時の街道整備や輜重隊の機動力、何より兵糧の確保や元となる経済力は貧弱で大規模な軍隊を支える兵站の構築は困難を極める
まともに攻めたらちょっとした砦すら落とすのは難しいし時間を浪費すればどうやったって遠征軍の方が先に音を上げる
時間を稼ぎ相手に戦費を使わせることは重要な戦略
「あー、ここで死んだわ」とか「ここから行けそ…あ、やっぱ無理だわ」とかわかる。
あ?少なくとも木曽氏と真田氏はヤマトリカブトの根煮出して、鏃に塗ってたぞ?
特に、粗製濫造した矢竹を、切り落としただけである簡易矢は、基本擦り傷や地面に落ちた矢が足に刺さり転げ回る程度だったので、毒矢にしなければ侵入する敵兵を始末できなかったんだが。
なんせ、西国は暑いから、馬も早くへばる
そうなると勝てなくなるから、機動力失う前に、有利な地点を先に占拠して、地の利を取り全力で白兵戦ぞ?
石に撃たれるとは、スリング弾喰らう事を意味する。
印字打ちの投石紐の事を、スリングと呼ぶのだから。
城に詳しくない人は、江戸時代に建てられた天守のある城しか知らんのやろ。各城ごとで作りも使い方も全然違うのにな。
未発達なため、逆にどこの武士も騎馬戦闘は出来た
蹄鉄つけるほどふだん遠くに行かない
逆に関東以外で騎馬集団を作って有効になるほどの平原なんか無いです
けど、それと騎馬戦闘の可不可は無関係っつーか、普通に戦闘は出来るし元軍相手みたいに敵が
集団化戦闘してくるなら武士側も普通に集団化します
軍事制度は社会制度と密接に結びついてるから、一面的な面だけ見て未発達とか言うの恥ずかしいぜ
戦国時代の山城、伏鉢城とかは武器庫と兵糧貯蔵庫の意味合いが強い。山自体が城なんよ。
常に高所を背に防衛戦を行う。矢玉を撃ちまくり、投石や竹ヤリの備蓄もその場から消えたら
盾にしていた丸太を固定する藤蔓を切断し
丸太の雪崩を起こして敵軍を潰して、次の防衛線迄後退するんだよ。
当然だが、逆襲して登ってきた敵兵を殲滅してから再度防備を固める事もある。
下馬騎士とか、普通にヨーロッパでも存在したのにな
言い出した奴、西洋軍事史のこと知らねえんじゃねえの
山に分け入らないと、判別出来ないからな。
30m四方だけ稜線の中腹に広場があり、こんな所に畑有ったか?と発掘したら山城の跡だった、というケースが多い
そら、火薬庫のど真ん中で、かまどに火付けて飯を炊くか?と言うことになる。
ま、石やレンガ造りなら、マスケットの弾除けにはなるがな。窓から応戦するのが関の山。
取り付かれて、菜種油の火焰ビンとか投げ込まれたら、人間ローストの出来上がりぞ
真田の馬出し砦付きのは、緊急に工事して何とかナワバリの形に間に合った程度だからな?
本格的に設計して工事すると、徳川家康が絡んだ城のカタチになる。
計画的にガチガチのコロシ間にしてあるのが熊本とか五稜郭とか旅順要塞本体だ。
松前みたいなのは、あっという間に叛乱軍に陥落させられてるしな。
キ ム チ城でもないよりはマシなんだが、彼奴等が立て篭もると、特定の輩が食糧を独占するから
98%の奴隷が簡単に叛乱起こすので、簡単に落ちる。
で、日本の戦闘員が入ると、食糧の搬入が全く出来てないのに、結構持つから実に不思議である。
犯罪者の巣窟・犯島だから弱いのかな?
これが主流なら、流鏑馬なんてものは存在しなかただろうな。w
馬群の中に消すって、スタンピングだよなぁ。
踏み付ける、蹂躙する。スタンピードかいw
>>60
むしろ江戸時代は天守付きの城なんて殆ど建てられてない。
平和な時代に天守なんて建てたら謀反の準備でもしてんのかと幕府に睨まれるからな。
現存する十二天守も丸亀城(彦根城は微妙な時期)以外は設立自体は安土桃山以前だったと思う。
仙台城に天守が無いのも政宗が幕府に遠慮した説がある。
もっとも簡易なのは、適当な竹ヤリや木の枝を尖らせて斜めに地面に刺す、鹿砦
杭を打ち、荒縄をジグザグに張り回す馬防柵
こんな所は、古墳時代以前からあるからな。
出雲に定着した胡族が、持ち込んだ物だろう。
馬のつがい一組から、どれだけ増やす事が出来るか考えてごらん。
せいぜい数家族、馬2〜3頭から始まった。
燕滅亡が紀元前222年、全力で農作業や開墾しながら馬を自然繁殖するとなるとね。
紀元前後でやっとこさ数百頭が良い所ではないか?軍が編成出来るのは、速くても西暦1〜2世紀倭国大乱による弥生時代終了が西暦2世紀ぐらいだしな。因みに呉系のヤマト王権と燕系の出雲朝では折り合いが悪くて、戦争になったようだが。
なんじゃこれ?こんなもん安土城みたいな一部の城でしか聞いた事ねえわ。
西洋の城と勘違いしてんじゃねえのかこのアホ
だいたい、馬上本分の主人に従卒が5〜7人の郎党単位の班編成が多いからな。鎌倉時代は。
郎党とは家族な。家長と次男以下とか。
馬は貴重だから、ここぞと言うときに機能しないと困るのさ。
そりゃ、彼等の頭には、従卒なんて人間はいない、奴隷は人ではなくモノである思考の持ち主だからではなかろうか?
リャンバンとハクチョウ見たいな。
これも滅茶苦茶アホ。”攻城戦において”負傷者が一番多かったのは投石(湯や油含む)ってだけの話。
主要武器じゃねえっての。
躑躅ヶ崎なんて、ビンボーな武田の迎賓館だしな。アレは館であって城ではない。
そもそも、人は城、人は石垣であり、野戦軍による殲滅と占領が全てであり、人狩りが存続の肝といえる武田家では、城は制服地での弾圧拠点でしかない。捕まえた奴隷を管理する牢獄の様な、ね。
アホがここにもいたwww
日本に3万あったと言われている城のほとんどは戦闘用だっての。
コスト管理は大事だぞwwww
カネの行方が戦の趨勢を決める。金が尽きれば
其処で戦争は負けて終わる。
全然関係ない話を始めるアホ
投石は主要武器じゃないという事実を突きつけてんのにカネの話になんの意味があるんだ低脳
武田の戦闘用の城は、躑躅ヶ崎館ではないぞ?
各地の拠点の防備の方が、遥かに強力よ。
例えば、砥石崩れ起こした後、人員を集中して落とし支配地にした砥石城なんて凄まじいぞ?
アホかよこいつ
躑躅ヶ崎は戦闘用じゃねえっての
しかもそんな城は3万のうちのごく少数だって話をしてんだアホ
俺が最初から少数の例外があると言ってんのに、その少数を取り上げるとかアホの極みだな
投石の石は、格安で用意出来るんだ。子供や老女に拾わせるから。
城の本体の工事人を使えるか!っての。
矢にしろ鉄砲弾薬にしろ、刀槍にしろ安くは無いぞ!
玉鋼や火薬や鉛なんて、高価な品の代名詞だ。
安く集められるから、ドンドン打て!となる。
負傷率が高いのは、大量に投石されるからぞ?
投石は主要武器じゃないって言ってんのに
お前の話になんの意味があるんだって聞いてんだけど?
そもそも日本の城のほとんどは地形を利用した山城で大工事なんか要らん。
無知蒙昧の馬鹿はいい加減黙っとけwww
攻城戦において防御側が高所から落とすだけで絶大な威力を誇る投石(レンガかそれ以上の大きい石)は
安いからではなく実用性が高いから使われる
あくまで威力重視なので子供や老女が拾って来れるような小石ではなく
当たれば骨ぐらいは砕ける程度の重さが求められる
そもそも本当に投石が主要武器ならその技術や道具が発達して然るべきだが、そんなものはない。
これこそ正に投石が主要武器では無かった証拠。
投石部隊も一部の書物に多少登場する程度でその数は多くない。それこそ三方ヶ原の戦いで出てくる程度。
しかも主力として書かれてはいない。記述は「投石部隊に指示した」これだけ。
現在でも報道で投石を報じずに、銃火器の使用だけを取り上げること多いけど、それったでかい石投げつけられて洒落にならんから、装備していた銃火器使って反撃したって事例だしね、中東とか。
騎馬戦闘は鎌倉武者の武芸だぞ
乗馬の習熟が難しいから戦国時代には少数派に
ポニーて大きいんだよ、実際にポニーを見た事がない馬鹿が言ってるだけだよ。
日本の原産馬は蒙古馬よりも一回り大きくて山谷でも走り回れて持久力も高いから他国の馬よりも戦争向き、ただ性格が凶暴だった為に日露戦争の頃になると廃れていってしまった。
あの頃になると、もう馬に求められる能力が戦闘と言うよりも重量の有る積み荷を高速で運べる大型の家畜である事に変わってたから。
大阪城は鉄筋コンクリート製でエレベーターが付いとるで
さすが太閤様デザインのお城や
高所からのスリングショットは凶悪よな
日本の古代からある投石は印字打ちって言うんだけど、調べて見れば解るけど凄まじい破壊力だよ、単発銃に劣らないレベル。
刀だよ!飾りや展示用ならともかく、実戦で使う類いの槍なんて重すぎて使い勝手が悪くて集団戦で開けた所、若しくは障害物で阻まれた防御戦でしか役に立たない。
ゲームの影響で槍、槍言ってるウマシカは実物に相応するものを持った事が無いし弄った事も無いんだと思う
昔は普通に使ってた。
時代が下って来て城の備えが完璧になり、攻め落とせなくなったから攻城戦が減っただけ。
ちなみに会津城は幕末に攻め落とされてる。
>馬から降りて戦う
流鏑馬は何のための訓練だったんや?
>主要武器は投石
それって他所の国でも同じやん?
時代によるけど歩兵線は前衛が弓兵で、その次に投石部隊や投げ槍部隊が有り、続いて槍兵ってのがセオリー。
大阪城が凄いのは、市民の寄付によって作られた大阪市民の城ってとこやな。
あと、地味に現存する日本最古のコンクリート建築物群の一つ(古さで言うと日本で三番目)で、コンクリート城としては日本最古の物や。
ちなみに櫓の方は徳川時代の本物で、大手門の造りなんかは一見の価値が有る。
城マニアにしかわからん事やけどな。
ゲームでも障害物に得物が引っ掛かるタイプだと狭いところで槍とか使い物にならない
日本中で後から天守閣だけなく周辺の遺構まで大規模に復元されてるね。現存で12だけは確かに少ないかも知れないけど、
世界に通用する観光の目玉になっている。
戊辰戦争や西南戦争をはじめとした士族の反乱の際にガチ攻城戦で使われている城もあるぞ。
で、江戸時代の城は関ケ原の戦いや大坂の陣の戦訓を生かして壁に鉄板を入れるなどして防弾加工してあるから当時の大砲くらいでは致命傷にはならない。
実際に会津若松城や熊本城は耐えきっているし
反り返っている日本の石垣は垂直の西洋の城より強力と言える。足がかかりが無いから。また土の空堀はこれも恐ろしいものだった。
堀に入った敵兵は土が滑るから上へ登れず、横には土の隔壁があり横にも行けない。上から攻撃されなくても戦力外になる。
コロナの前に、日本中回れて良かった。確かに凄いね。石垣や堀の遺溝しか遺ってないところでも、
その威様が良く分かる。日本各地の城は資料も豊富だし。
それは事情が有ってな。
昔からある城って、何度か天守が作り直されてるんや。
場合によってはスタイルがまるで変ってる場合もある。
復元の際、時代によって絵図面がバラバラで何が何やら分からん狩ったり、揃っていたとしても、どのスタイルで復元するか意見がまとまらず復元できずにいるって事もままあるんやで。
彦根城の様に残っていた場合は今の姿を保つために色々やるんやけど、復元するとなるとイメージが固定されてしまってただでさえ曖昧だった姿が余計わからんくなってしまうんや。
だから天守は復元されないことが多い。
>ビンボーな武田の迎賓館だしな。アレは館であって城ではない。
今川や大内みたいなリッチな大名もお前さん曰くの「館」だぞ。
で、有事の際には詰城という防衛施設に逃げ込むだけのお話。
信玄も生まれる前後に今川軍の侵攻が始まったので詰城の要害山城で生まれたという話もあるし。
有名な春日山城や七尾城も普段は城下にある館に住んでおり、有事の際にこもる城だし。ちなみに普段は人質が放り込まれていたとか
どこの城か忘れたけど展示されてるよ。
ただ、多くの人は専門道具じゃなくて手ぬぐいで活用してたから多くが残ってないだけで。
流鏑馬(騎射)は主に鎌倉時代がメインで、その後、足軽の集団戦法に変化した過程で武士の嗜みになっていった。
量産に優れ、リーチのある鑓はメインになりえた。
長柄による突撃(指突)もあり、、叩くもあったが、使い方は、石突を利用して地面に刺し固定して槍衾も多かった
安土城だって戦闘用に作られたものだし(信長は流石にあの時期に安土まで攻められる想定はしてなかっただろうが)、実際本能寺の変後戦闘が起きているのだが。
あと西洋の城もガンガン戦闘してるんだけど…
攻め落とされてないぞ
奥羽越列藩同盟が崩壊して会津藩が新政府軍に降伏しただけ。
城自体は守り切っている
下手に古いからあのデタラメ天守が壊せないんだよな
早くぶっ壊して徳川期の天守を再建するかいっそ大阪城全部掘り起こして豊臣期の姿に戻すか。
まあ、江戸時代の遺構や第四師団司令部もあるから前者一択だが。
ほとんどの城は秀吉期から江戸初期に作られたか改修されててはじめは天守をもってたりしたんだけど焼けたり壊れたりした時に幕府への忖度や財政難で再建されなかった。
街を守るか城を守るかでコンセプトが違うから中国や欧州の城と日本の城は全く別物よね。
日本はある程度突破される前提で作ってあるからひたすら縦深防御する構成になってる。
1番外を抜かせない、あっても外郭と城塞くらいの欧州の城とは全然違う。
騎兵というのは騎乗戦闘をする前提で編成と運用がなされる兵士および部隊のことで、馬に乗って戦う武人全般がそのまま騎兵というわけではない。歴史上はじめて騎兵が登場したのは紀元前8~9世紀前後のアッシリアと言われているが、当然ながらアッシリアは近隣の騎馬遊牧民から騎乗戦闘の方法を取り込んでいるので、じゃあ史上初の騎兵じゃないじゃんと思われるかもしれない。が、当時の遊牧民の戦闘は個人戦の形態が拡大しただけのもので、まだ戦術レベルで騎乗兵の集団戦法を確立していなかった。だから、騎乗戦闘の専門部隊を特別に編成して作戦や戦術の一助にしようとした、というのがたぶん初めてアッシリアで行われたのをもって騎兵が誕生したという話になっている
日本では馬に乗って良いとされるのは特権階級に限られており、武士たちは領地や俸禄をもらう代わりに自身と一族の武力を主君に提供するという契約のもと、かなり個人的な資格で戦場に馳せ参じていた。そのなかで武士たちは従者に持たせた複数の武器を状況に応じて使い分け、また指揮官の指示ではなく個人の判断で戦うことがかなり許されていた。そうした中で必要とあらば騎乗戦闘を行うという判断が生まれるし、他の味方と示し合わせて集団突撃をしてみたりとかもあったけれど、作戦として騎乗戦闘用の部隊を集めようという発想で運用されたわけではない。例えばナポレオンの近衛騎兵が個人的な判断で隊列を離れて下馬戦闘したら処罰されるだろうが、ある武士が他の連中と違う判断のもとで下馬戦闘を行っていても、手柄を立てる機会があるかどうかが見られるだけでその判断自体にとくにお咎めがあるわけではない。むろん長篠みたいに例外的な場面はあるけど
だいたい江戸初期までに作られてるから手抜きはないはず。
銃とか大砲って投石の延長のような、
がっつり戦うよ。
外堀やそこに配置されてる櫓や大手門、馬出で。
で、そういうのに対抗するために防御用施設を実践に採用したのが楠木正成、菊池千本槍こち長槍を中心とした歩兵部隊を編成して北朝軍相手にタイマン張っていたのが菊池氏。
で、それらを取り入れていった結果が鎌倉武士から戦国時代の武士になった…悪党化したともいうが
歴史の事物自体、これはこうだ!って言えるような一元的な代物じゃないし
んでそういう「ある面から見ればこういう風にも言える」みたいな視点で見た景色を、センセーショナルさを優先した物言いをするヤツが言いふらして、更にそれを面白がったヤツが誇張して、最終的に伝言ゲームみたいにおかしな話が産まれる
城下町がどうなってたかも重要なのよ。城の敷地や天守閣も大事なんだが城下町の作りや堀の位置とかそういうのが合わさった複合的な防衛施設なんだし。
戦は起こせない時代とはいえ常に備えておくのは軍事の基本だし
今建ってるデザインは残念ながら徳川様の大阪城やぞ
中身は戦後の鉄筋コンクリ製だから太閤様のオリジナルより頑丈だしな
蒲生氏郷が設計した城下町とか今でも迷路になってるらしいですね
今は揺り戻しきててヲタが梯子外された形よね
平時は政庁、戦時は指揮所
本丸だけでなくそれを守る二の丸、三の丸
その他の曲輪。曲輪をまるっと守る外堀。
なんで全体を見れんのや。
本当にあの場所だjけで戦うとか思っとるんか。
町を囲んでいた城壁、戦闘櫓が戦闘、防衛の要で城壁内の城館は戦闘用ではない
城外のやつは保養地離宮や趣味で作ったり、愛人に住まわせたり、本城を離れて遠く国境辺りまで遠征した時の休憩用や遠征時の陣屋代わり、支城
京都の守りやすさときたら。
京都防衛の要は周囲の山と京都盆地内への出入りを難しくしている峠街道でしょ
そこを突破されて盆地内、市内に侵入されると脆い
縄張りは徳川時代そのままだけど、今の天守閣のデザインは豊臣時代のが元だぞ。
そんな場所で馬を使っての戦術なんかできると思う方がどうかしているよ。森の中で投石なんかできると思う人もどうかしている。外に出て限界集落に行って現実を見てくるといい。で、戦国時代の城は山城って呼ばれていて、この限界集落を取り囲む山全てが城。
ここまで説明すると分かると思うけど、これってゲリラ戦なんだよ。今風にいうと非対称戦闘
周囲の山も姿を変えていたり、都市開発で運河や中洲の河川を変えていたり道路整備、一般人も居住や出入り自由になっているけど
大阪城の復元模型って、真田丸まではカバーしてないのよ。平時の豊臣時代と徳川時代の姿だから。
真田丸がなくても、豊臣時代の大阪城でも石垣があちこち屈曲していたり、石垣の隅をカバーする郭を攻め取られても、高所にある周囲の郭から十字砲火をできるようにしてある。
後、南側は援軍が来るのを前提に、寄手をそこに引き付けるために、わざと手薄に見える空堀にしてる。だから、真田丸が無い状態が正常で、別に未完成ではない。
(実際は城下町でかなり縦深がとれるけど。)
冬の陣では援軍が見込めなかったから、急遽ガチガチに固める事になり、その一環で真田丸が築かれた訳。
外堀は更に外周の東京都道405号外濠環状線のところ
外堀の方では一般市民などはそこの橋や御門を通って平時の出入りは許されていたけど、何重もの門、と監視所(見附)があったわけで
そこの外堀から城内外殻部市内へ、そしてそこから更に内堀を渡ってより深く内部までは入ってこれるのは限られた人だけだった
平時は夜間は城門を閉じて外部からの出入り禁止、戦時は固く城門を閉じて城壁の一部、戦闘櫓とともに城壁近くまで来た外敵との戦闘防衛の要となった
七尾・小丸山城の城下町には寺が複数あるが有事の際は軍事拠点(山の寺寺院群)
それなりに大きな町で空襲や大規模災害にあっていない町は概ねそんなもの
石川県の金沢で車で行ったら車線規制が酷いので運転手曰く「空襲にあえばよかったものを(その後都市復興や開発で車での移動が楽になるから)」と物騒なこと言っていたけど
尊氏が挙兵して以降何度も何度も何度も何度も軍事制圧れているんですが、それが…
ちなみに鎌倉城とか言われている鎌倉も同様。こちらに至っては鎌倉公方様が放棄して古河に逃げている…まぁ、政治経済の拠点であって軍事手拠点ではないのでしょうなるけど
無理だよ。江戸時代の城って戦闘目的で設計されてるし、長年城下町だったから交通の中心だし、軍隊の反乱分子にでも立てこもられたらえらいことになるから敷地ごと潰すしかなかった。
上杉氏の春日山って山城のサンプルみたいなもんだから跡地を歩いてみたい。
豊臣期の再現なんて二ノ丸三之丸くらいまででも住民の立ち退きが必要になるんじゃないの。
江戸時代の城は城下町まで城の一部だったりする。
おいらの住んでるところも江戸城防衛の拠点。たぶん本丸は将軍様の臨時指揮所を想定してるから藩主は二ノ丸を使う。表向きは上様の定期的な御成の通り道でその際の宿泊用ってことで。おかげで明治時代に治水名目で潰されてどこに城が有ったのかも想像できない。
投げるのに適した石は拾うだけじゃ足りんので大抵はもっていってる
都内の中仙道近隣だけでも江戸城、志村城、赤塚城と数里おきにびっしり配置されてたし
高山の少ない東京都トータルでも100の城趾があるぐらいだからな
スレ主は天守閣や石垣が無いと城に見えないニワカよ
半島の城はどれも中華式の結構豪勢な大城で日清戦争でも実用に耐えたりした
それと比べるから日本の大半の山塞は城に見えないんだろうよ(笑)
壬申の乱で既に奈良盆地や近江に騎兵侵攻やってたぞ
中世の大砲には石弾や砂利(散弾代わり)が普通に使われてたよな
石弾はカタパルトの
カタパルトの延長線なんだろうが
日本でも60年代の学生運動で投石が猛威を振るってたよ
おかげで銀座や上野の煉瓦道路が無くなって全部アスファルトに変えられた
機動隊がシールド装備になったのは飛んでくる煉瓦対策が始まり
軍艦だと昼戦艦橋と夜戦艦橋と航海艦橋の三種でも執務室とは別が基本だから
例えとしては正しくないよ
艦長は基本的には艦長室内執務で平時でも艦橋に常駐するのは駆逐艦艦長だけ
それを軍事的に表現するならオーバーランだ
砲や人員を馬に踏ませて壊す
限界集落なら、寺尾系集落の小諸城仕立てじゃん。
中山間の寺の前の田畑とかは、人の移動場所である、川や、尾根の街道からは見えない場所ってのがあるから、天狗が隠れ住むのに都合の良い場所になってる。
それを利用して、敵さんが攻めてきた時に、集落への入り口を通りこして行ってしまうんで、後ろから奇襲をかけるのに程よい作りになっている。
間違って、人が入ってきたら、処分しないといけないのは、御存知の話だ。
道祖神とかを置いて、間違って入ってこないようにするのは、お約束。
街道もあるわけだから、各家々には馬小屋跡も大概に残ってるはずだよ。
そもそも山城が造られるようになった理由の一つが「騎馬武者が突っ込んでこれない場所に城を造る」ためだったって話も
実際に尾根や舌先台地の途中に柵と空堀を設けて騎馬、徒問わず直線的な突入を困難にする仕組み自体は初期の山城から見れてるわけで
>集団戦で開けた所
むしろ攻城戦以外の合戦で待ち伏せとかの一部特殊な事情除いたら野戦のほとんどはそういう「開けた場所」で行われてるんですが・・・
あまり知られて無いみたいやけど大阪城や小田原城は一種の城塞都市だからな。
町一つ丸ごと城の一部だから難攻不落。
事実、どちらも正攻法では落とせなかった。
天守の形状が違うし堀も付け替えられている。
ぶっちゃけ別物やで。
安土は戦闘用じゃない
信長の権力者としてのモニュメント
そもそも琵琶湖の周囲に城があるんだから
安土に着く前にそいつらが迎撃する
安土まで攻め込まれることはない
だから贅を尽くした作りになってる
武将の持つ槍と足軽が持つ長槍とじゃ、質も用途も全く持って違うんで何とも言えんな
厳島合戦「せやな」
桶狭間「まったくだな」
関ヶ原「山の上に陣張ってますが何か」
>>36
熊本城「俺なんか明治の世になってすら戦で使われたぞ(西南戦争)」
>>73
なんなら足軽に長槍持たせる意味はなんぞや? って話にもなるな