2018年08月11日 09:15

戦国時代の合戦の地形について語ろう

戦国時代の合戦の地形について語ろう

takeda

引用元:戦国時代の合戦の地形について語ろう
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1533898580/

1: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)19:56:20 ID:jhF
はたして徒歩や騎馬が駆けてぶつかりあうような現場だったのか
整地されてる場所の方が少なく足元もおぼつかない森林、藪、岩場、田畑が現場じゃなかったのか
実際は部隊個々でバラバラに、モソモソした動きで地味な動きだったと思うんだけど、どうだろう?
兵士たちも殺る気があるのは一部で「死なない程度に戦う」「少しでもケガしそうなら逃げる」ってのがほとんどだったろうし

4: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)19:59:42 ID:BPW
沖田畷とか畷がつくところは田んぼの中に細い小道が通ってる地形で沖田畷の惨劇に近いレベルの壊滅は田んぼに足を取られたからって話があるで

5: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:01:58 ID:jhF
>>4
昔は膝や腰まで沈む深田も多かったらしいしね
そりみたいな板に苗とか載せて片足のっけて田植えするっていう

7: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:04:40 ID:BPW
>>5
本当島津家久(弟の方)は良く考えたわ
そうやって何かあったら逃げるような兵士を逆手に取った兵法をしやがる

9: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:06:43 ID:jhF
>>7
そういう記録に残ってるいくさとか、地形によって有名になったいくさ以外で何か知ってることある?
小競り合いとかでもいいけど

18: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:15:00 ID:BPW
>>9
長篠の戦いなんかも設楽ヶ原に上手く誘い込んだ地形を利用した戦いね
設楽ヶ原に広大な鉄砲狭間を作って簡単に織田・徳川方には攻められない様にする→武田方背後の砦を奇襲で落とし、撤退できない様にする→武田方目の前の鉄砲狭間を落とさなくてはならなくなり大損害

22: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:21:39 ID:jhF
>>18
それだよなー
いい加減長篠の戦の「バカみたいに騎馬隊が一斉に突撃、鉄砲ドーン」を見直してほしいね
現地見れば馬がまともに走れるような場所じゃないのすぐ分かるしね

24: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:25:13 ID:FrO
>>22
武田騎馬隊の存在自体疑問視されてるしなあ

そもそもあんな柵を並べた要害だとしてもあそこに馬で突っ込む馬鹿おらんやろ

8: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:06:03 ID:BPW
騎馬に関しては甲斐と三河を境とする東国と西国で運用違ったというしなぁ
最も騎馬兵の率が高かったのは北条氏だとか

13: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:09:06 ID:jhF
>>8
騎馬率は北条が一番てのは理に適ってるね
湿地や背丈ほどのヤブの武蔵野とはいえ平野だから馬が活きるもんな
逆に山だらけの武田の騎馬隊の意味がわからんのよね
ろくな平地ないし結局降りてるときの方が多そう

10: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:08:05 ID:lzw
狭い地形が多くて奇襲しやすい分広い平原の戦術は進歩しなかった

11: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:08:21 ID:FrO
原 川 野が目立つよな

14: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:09:52 ID:eyj
川沿いは行き来大変そう
あと昔は田んぼの整備は全然進んでなくて湿地が多かったらしい

16: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:12:38 ID:jhF
>>14
いまでもちょっと山の方行くと「ここに橋が無かったらどれだけ行き来が無かったか」とか思うもんな
居住区以外は、道も田畑も今とは比べ物にならないくらい荒れてるだろうから「そういうとこでの戦いなんだ」っての大事だよね

20: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:16:42 ID:jhF
10年経たないで福島原発のまわりがああなるのを見ると、少なからず元亀天正の頃の日本の風景が想像つくというか…
道も獣道みたいなのばっかりやったんだろうな

21: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:20:39 ID:vSl
>>20
よく道を整備した大名はいるけど実際どんな感じやったんやろな
五街道でさえ人2人がすれ違えるくらいの道しかなかったらしいけど

26: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:27:22 ID:jhF
>>21
関ケ原から大坂の陣の間位の記録だった気がするけど…
家康が東海道は整備して、30センチくらい盛った2mくらいの道幅で、村々にほうきで掃除させる義務づけしたそうな
当時の最高級のメイン道路がこれだとしたら、他は推して知るべしだよね

25: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:27:12 ID:i8Z
戦国時代の日本は広い原っぱだらけなんやで
灌漑や治水が全然進んでないから、ちょっと高台になると水不足で野原化
河川も雨が降ると広い範囲で氾濫するんで、その周りだだっ広い土地が広がっとるんや

「日本には狭い地形しかない」みたいな思い込みは
江戸時代以降の治水事業と開発で、それまで利用できんかった土地も
耕作地や居住地に出来るようになった結果や

28: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:33:47 ID:jhF
見栄えの問題なんだろうけど、ドラマとかの都合のいい平場での合戦シーンはどうにかしてほしいw
ああいうのが原因で騎馬隊といえば突撃!とか盲信しちゃうんだろうね

29: 名無しさん@おーぷん 2018/08/10(金)20:42:36 ID:jhF
有名になった戦場とかはすぐ舗装したり整備したり改悪しちゃうけど、当時のまま残してほしいんだよなあ

1001: 名無しさん@大艦巨砲主義! 2011/7/24(日) 12:20:40.20 ID:milio


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コメント

1.名無しさん:2018年08月11日 09:20 ID:F0ljW8e90▼このコメントに返信
チノ=リって大切やね。
2.名無しさん:2018年08月11日 09:20 ID:BRF4lVb80▼このコメントに返信
んなことない。生きても仕方ない時代なので、せめて一旗。

騎馬突撃もあったし、武田は数千の騎馬隊を有していたし、陣形もきちんとあった。

3.名無しさん:2018年08月11日 09:26 ID:PIQrZo.l0▼このコメントに返信
※1
血糊?
4.名無しさん:2018年08月11日 09:41 ID:Dpabxl1v0▼このコメントに返信
こんな過疎スレまとめないとネタがないのかってレベルで過疎ってんな
しかもネタ元がなんJとか
5.名無しさん:2018年08月11日 09:42 ID:qg4rAHzy0▼このコメントに返信
実際の倶利伽羅峠の戦いはどうだったのと聞かれると頭抱えます
6.名無しさん:2018年08月11日 09:44 ID:HxaZMvTX0▼このコメントに返信
※本22
日本馬は荒地や山岳でも走れるから平地で無くても問題ないんだが

鵯越の逆落としの様に馬で崖を駆け下りたなんて話もあるくらいだからね
7.名無しさん:2018年08月11日 09:49 ID:LD6m9TiB0▼このコメントに返信
>現地見れば馬がまともに走れるような場所じゃないのすぐ分かるしね

※こういうこと言う人で、実際に現地見た人0人説
8.名無しさん:2018年08月11日 09:53 ID:AkfxCtAE0▼このコメントに返信
※4
おーぷんにしてはレスが多い方やで、そしてあそこはナンjにしか人がおらん
9.名無しさん:2018年08月11日 10:06 ID:0BQlSQVV0▼このコメントに返信
当時の人口から考えても、合戦に投入された人数が胡散臭い。あと、色々と戦いがあった割には、古戦場の遺跡みたいな発掘がない気がする。
10.名無しさん:2018年08月11日 10:20 ID:Qj2EoV8d0▼このコメントに返信
平安~太平記ぐらいまでは騎馬隊あったと思うな。
絵も馬乗って戦ってるし。

騎馬隊が廃れたのは動員兵力が大幅に増えて足軽が増えたのが原因じゃないかな。
応仁の乱まで1万以上動員してる奴なんてほぼいないし最大勢力の大内でさえ2万。
応仁の乱の原因で山名宗全、細川勝元が死んでも延々と戦い続けた畠山義就なんて3千とかそんなもん。
応仁の乱でとにかく兵が必要っていうんで農民だけでなく盗賊、難民雇って足軽が登場した。
当然そいつらは馬も持ってなければ馬にも乗れない。
太平記までは生まれながらの専業武士たちが主力だった。応仁の乱で足軽が誕生し歩兵が大幅に増えた。
だから騎馬隊が廃れた。と思う。
11.名無しさん:2018年08月11日 10:24 ID:wLe1G1RH0▼このコメントに返信
昔は薪が燃料だったので藪が少なかったんだぞ
他にも森に入れば山菜も採れば獣も獲るから本当に歩きやすい森だった
12.名無しさん:2018年08月11日 10:28 ID:Zpd2pcT80▼このコメントに返信
残したけりゃナショナルトラスト運動して買取すりゃいい
13.名無しさん:2018年08月11日 10:29 ID:ZO1di.S10▼このコメントに返信
米9

都市開発で遺跡無視して建物たてたり舗装道路の下になってたり戦災で失われたりだろうね。
人数を資料で盛ってたりするのは昔から世界中あることでよくある話。
当時の足軽は農民が多くて途中から逃げたりとかいても戦わないとかいたし実際に前線で戦っていた人数が少ないのは本当だろうけどね。
14.名無しさん:2018年08月11日 10:31 ID:e0dIZTO90▼このコメントに返信
>「日本には狭い地形しかない」みたいな思い込みは
整備されてないから活用できる土地が狭いんだろが
高台に水を引けないから田畑にできず
川が氾濫するから田畑が維持できない
15.名無しさん:2018年08月11日 10:43 ID:wMWS9kVD0▼このコメントに返信
※11
一度人の手が入って、そのあと人が立ち入らなくなって自然繁茂ってのがいちばんめんどくさい山・森らしいね。
植生も偏りまくるし大樹が無くなってるから足に引っかかる系の背の低い草木がやたら増えるって。
原生林の方が歩いててずっと楽ってのは道民だからよく解るよ。
16.名無しさん:2018年08月11日 10:43 ID:ax2xdKkW0▼このコメントに返信
田畑が近所にある人にはわかってもらえると思うけど
もう何百年もほったらかしみたいな原っぱって、結構いろんなとこにあるよね
数千人が一同に会せるくらいの原っぱもあるっちゃあるし、それよりもっと小さいけど100~300mくらいの直線確保できるくらいの原っぱは多分どこにでもある
多分近くに川がなくて使いみちがなかったような土地

都会に住んでる人にはいまいちピンと来ないと思うけどね
17.名無しさん:2018年08月11日 10:59 ID:.oFxSUo20▼このコメントに返信
※15
>植生も偏りまくるし大樹が無くなってるから足に引っかかる系の背の低い草木がやたら増える

横浜の郊外である、うちの近所にもそんな山あるわー。
人が入り込めない山。
18.名無しさん:2018年08月11日 11:10 ID:QmkMTdbP0▼このコメントに返信
田園地帯で合戦やるときは、主な通り道に板置いたりして、通れるようにしたんだぞ。
19.名無しさん:2018年08月11日 11:16 ID:FDDm142E0▼このコメントに返信
※3
恐れは~しない~ とびこめばいい~
20.名無しさん:2018年08月11日 11:16 ID:wMWS9kVD0▼このコメントに返信
※9
お江戸の頃から土地開発も水利工事もたいへん盛んなんで、戦国当時と地形がまるで変わってる。
なので厳密にどっからどこまでって絞り切れてない古戦場はかなり多い。
古地図やら工事記録やら土質分析やら地道に何年も資料付き合わせてようやく当時の地形が判明し、
「アレそれじゃ通説の合戦記録と矛盾しちゃうじゃん!ここでこんな風に戦闘できねえじゃん!なんだこれ江戸期の創作かよ!」
ってなった話もちらほら。長篠とか三方ヶ原とか。
21.名無しさん:2018年08月11日 11:45 ID:G6WbyHjD0▼このコメントに返信
※19
海と大地のはざまにある世界の話はNG
22.名無しさん:2018年08月11日 11:54 ID:1tgbKTfn0▼このコメントに返信
日本に平地がないと思ってんのかなこいつ
ゲームのヘックスでしかもの考えられないんだな
関東平野は2マスしかない、日本には平地がない!とか
23.名無しさん:2018年08月11日 11:55 ID:1tgbKTfn0▼このコメントに返信
田畑なんて刈り入れ時から冬ならカッチカチの地面だし
むしろほとんどそういう時期に戦やってたんだが
24.名無しさん:2018年08月11日 11:56 ID:1tgbKTfn0▼このコメントに返信
まあ歴史板でスレ建てない時点でお察し
あっちでスレ立てたら速攻論破されるからな
25.名無しさん:2018年08月11日 11:58 ID:1tgbKTfn0▼このコメントに返信
※16
東京にも奥多摩っていう自然豊かなところがあってな
26.名無しさん:2018年08月11日 11:58 ID:DKPD0JT.0▼このコメントに返信
不自由な僻地でわざわざ骨を折りたくはないわな!
27.名無しさん:2018年08月11日 11:59 ID:dhG1G9sV0▼このコメントに返信
スターウォーズのあれってなんでネタみたいになってんだろ
28.名無しさん:2018年08月11日 12:00 ID:1tgbKTfn0▼このコメントに返信
関ヶ原古戦場見てこい
本当に騎馬が駆け回ることができないか一発でわかるだろ
沖田畷なんてレアなケース引っ張り出してそれしない時点で
29.名無しさん:2018年08月11日 12:07 ID:K1F6ubSR0▼このコメントに返信
鎌倉時代までの弓騎兵が廃れたのは弓を歩兵が担うようになったため、
室町時代までの打物騎兵が廃れたのは歩兵が長柄を使うようになり、止めで鉄砲、
なのでは? 地形がどうとか全く、全く関係ねーでしょ。
木々生い茂ってがどうとか言ってるけど、軍隊の移動は基本的に街道沿いで、会戦もそうした地域で
行われるでしょ。そうしたところでは、木々は燃料として伐採されてて間引かれてたんじゃないの?
それと戦国時代にもなって領国の一円支配を確立した大名家なんかでは、
動員した侍身分の者とその従者達を引き離して編成し直すくらいのことはやってたらしいじゃん。
恒常的な編制としての騎馬隊は無かったかもしれないが、場合によっては騎乗の侍達をまとめて
運用するくらいは出来てたんじゃないの?
30.名無しさん:2018年08月11日 12:27 ID:MaMOIYrQ0▼このコメントに返信
※10
応仁時代の初期の足軽って、傭兵部隊みたいな形で作戦に関与してる
でも正規軍は昔ながら(封建的な)の守護国所領からの動員で賄ってたよ、、、

室町に騎馬騎士が減り歩兵部隊に変化したのは
南北朝時代に近畿近辺の今まで御家人に慣れなかった小規模財産レベルの土豪が武士として採用されることで
近畿地方中心に馬を維持できない小規模武士が増えたことによると思う、、、
嘉吉の乱でも軍勢主力は歩兵に変化してるし、足軽採用が軍全体の編成作戦運用に影響した、とはいい難いんじゃないかなぁ、、、

ちなみに長篠で武田側が主人以外は馬から降りて徒士で突撃した、って記述は(資料価値が薄いって評判の)甲陽軍鑑からのものなんですよねぇ
戦場でユニット解体して騎馬兵士だけを抽出して運用する(完全騎馬兵軍として)とか戦国時代でやらなかった、って強い証拠はないんですよね、、、
31.名無しさん:2018年08月11日 12:50 ID:dFQQhAtm0▼このコメントに返信
関ヶ原って結構狭いんだなぁ
もっと広いと思ってた
個人的な感想
32.名無しさん:2018年08月11日 12:58 ID:0d09LfVq0▼このコメントに返信
日本の軍事史をまともに研究しようとするならば、ちゃんと現代の兵術・兵学も勉強の必要がある。

隠蔽されてもいない陣地に突っ込む騎馬なんていないと思うし、騎馬隊の突撃とかいうのは、煙幕で視界不良にしたら簡単に阻めた可能性があると思うんだよね。鉄砲隊は、つらつらとした縦隊でばーっと出て、単発銃でもマシンガンのようにドドドドーっとやにわに一斉に撃って、下がって再装填、編成は20名単位とかだったんじゃないか、隠蔽が肝要のショットガンのような運用だったんじゃないかと思う。
33.古古米:2018年08月11日 13:04 ID:y6U1p4FY0▼このコメントに返信
合戦の時は、各戦国大名が戦場となる農地の主に事前に金払ってたと言うね。
「荒らしてごめんね」という意味で。
その金を受け取った農家は肥溜めに蓋をしたりと事前の戦場整備をしてくれたらしい。
そして合戦が始まると遠方から、握り飯片手に勝敗を見ていたらしい。
合戦後に打ち取られた将を弔った後に、兜や鎧を遺族に送り付けると褒美が貰えたそうだ。
足軽や雑兵は、死んだら刀や服を剥ぎ取られて新たに作った〇〇塚にまとめて葬られたらしい。
34.名無しさん:2018年08月11日 13:09 ID:AzAtH8.A0▼このコメントに返信
※24
人口3人(全員粘着ガイジ)みたいな過疎板の議論なんて意味ないよw
35.名無しさん:2018年08月11日 13:23 ID:OfayDE6O0▼このコメントに返信

※9
兵力数は補給の人足もふくめているようで、戦闘員は1/3ぐらいだと、どこかでよんだ。
36.名無しさん:2018年08月11日 14:51 ID:iq8XOAE30▼このコメントに返信
まあどう見ても平地はある程度あるし騎兵も活躍できてるよな
できなかったとしたら絵だけじゃなく文章でも騎馬戦術が明記されてる蒙古襲来絵詞とかなんなんだって話になるし
37.名無しさん:2018年08月11日 16:57 ID:M4ZwcnFu0▼このコメントに返信
実際みれば甲府盆地でも松本盆地でも数千の騎兵は運用可能だけどね
ゲームでHEXマスで考えているとしか思えん
38.名無しさん:2018年08月11日 17:20 ID:R9P..j890▼このコメントに返信
日本は平野が狭いというか地形が変化に富んでるから、大陸の平原戦を想定した戦術、兵種、編成は異なって当然
39.名無しさん:2018年08月11日 17:56 ID:abixnAN70▼このコメントに返信
※35
非戦闘員を数に入れている場合もあるし、侍しか数に入れてない場合もある。
第三者が決まった形式に則って記録している訳ではないから正確には分からないよ。
戦闘員は1/3ぐらいってのが何を根拠にしてるか知らないけど、大抵は学者の推測や妄想だから。
数が多いから盛ってると考える人もいれば、数が多いのは非戦闘員も入ってるからと考える人もいる。
40.名無しさん:2018年08月11日 18:04 ID:W4t6B0jV0▼このコメントに返信
武田の騎馬隊が有名なのは
甲斐・信濃は馬の産地だからやで。なので馬刺し食べる習慣がまだ残ってる
41.名無しさん:2018年08月11日 18:09 ID:abixnAN70▼このコメントに返信
>そもそもあんな柵を並べた要害だとしてもあそこに馬で突っ込む馬鹿おらんやろ

信長公記や屏風絵などから織田・徳川軍は柵の外に布陣していた事が分かる。
柵の中は各将の本陣などがあり、また柵の前には横堀が掘られていて、
そこに軍勢を隠して武田が突撃しやすいように仕向けていた。
火縄銃の装填速度は遅い為に1~2回の斉射を耐えれば徒歩でも肉薄可能で、
教科書で言うような火力での圧倒的な勝利ではなかった。
現に本多忠勝は柵の中の本陣にまで斬り込まれ一時的ながら窮地に陥っている。
42.名無しさん:2018年08月11日 18:16 ID:W4t6B0jV0▼このコメントに返信
> はたして徒歩や騎馬が駆けてぶつかりあうような現場だったのか
だから集団戦出来る場所っていうのが限られており
戦国時代は相手が兵を動かせばある程度布陣する場所っていうのも見当がついたんだよ

なお騎兵っていうのは太平洋戦争まで使われていたから
馬の機動力を戦いに活かすというのは当然行われていたし馬乗槍といったそれ専用の武器も開発されている
伊達は騎馬鉄砲隊なんていうのも考案しているね
43.名無しさん:2018年08月11日 18:25 ID:W4t6B0jV0▼このコメントに返信
武田信玄が強いと言われていた理由には幾つかあるんだけど
その内のひとつに「ちゃんと陣形を組んで部隊運用していた」というのがある。
当時の戦国大名は織田信長に代表されるようにゲリラ戦の様な戦い方が一般的だったが
信玄は組織だって武士団を運用していたんだな。だから強かったんだよ
44.名無しさん:2018年08月11日 18:34 ID:DvzHFlfL0▼このコメントに返信
※30
>戦場でユニット解体して騎馬兵士だけを抽出して運用する(完全騎馬兵軍として)とか戦国時代でやらなかった、って強い証拠はないんですよね

軍記物含めて戦国時代の合戦を描いた書物は近世以前にかなりの数があるのに、騎馬武者だけ抽出したほんまもんの「騎兵隊」を編制したって記述がまるで存在しない時点でお察し。現場の咄嗟の判断でやったケースはあるけど、それ以上の段階において、編制や指揮官判断のところで騎馬隊を創設したというのは「証拠が無いから」と言う理由で肯定するのは無理筋だよ

弓や鉄砲が得意な武士は、足軽の組と一緒に運用されてるケースがあるけどね。騎馬はそうした記録が見当たらない
45.名無しさん:2018年08月11日 18:40 ID:W4t6B0jV0▼このコメントに返信
馬のサイズについて
蒙古馬の平均体高は135センチ。ジンギスカンの軍隊は、この馬でユーラシアを疾駆し、征服したのである。
日本馬の当時の平均は142センチ、戦闘用馬としては十分すぎるほどのサイズである。

たとえばアメリカの西部で使われていた馬だって、大部分はポニー・サイズ。
ポニーサイズの馬が、カウボーイを乗せて走るのである。
46.名無しさん:2018年08月11日 18:46 ID:W4t6B0jV0▼このコメントに返信
※44
例えば戦国大名や武将は伝令部隊としての母衣衆をそばに置いていた。
信長の場合であれば、赤母衣衆と黒母衣衆の2部隊があった。これが騎馬のみの部隊。

だから戦国時代には独立した騎馬武者部隊は存在しなかった、という主張はそもそも成立しない。
各武将ごとに一定の騎馬を従えていた
47.名無しさん:2018年08月11日 18:57 ID:DvzHFlfL0▼このコメントに返信
手許に現代語訳の信長公記があったのでちょっと引用。信長十九歳のころの三の山・赤塚の合戦の段
「敵味方の距離五、六間(約9~11メートル)と迫った時、優れた射手たちが互いに矢を放った。荒川与十郎が兜の眉庇の下を深々と射られて落馬したところへ敵が襲い掛かり、(中略)この合戦で、(信長の敵の)山口教吉は上槍だった。その頃は上槍・下槍ということがあった。敵味方とも見知り合いの間柄なので、互いに気を抜くこともなかった。馬を下りて戦ったので、馬どもはみな敵陣へ駈け込んでしまったが、戦いが終わってから、少しの間違いも無く返し合った。生け捕りにした兵も交換した」

桶狭間の段
「(義元の本陣三百騎を追い詰めたとき)信長も馬を下り、若武者どもと先を争うように、突き伏せ、突き倒す」

下馬戦闘したときにわざわざそう注釈しているということは、乗馬戦闘も日常的に行われていたと考えて間違いはない。矢合わせも思ってるよりずっと近距離で行っているが、これは突撃する武士を掩護する「横槍」という行為で武士の従者が弓や鉄砲で行ったものと思われる。この頃の合戦は「足軽衆」と武士の名を並列して書いており、武士とも雑役とも異なる傭兵部隊としての足軽の姿が垣間見られる。初期の信長はけっこう800人とかそのくらいの規模の軍勢で合戦やってるけど、「たびたび手柄を立てた屈強の侍衆が七、八百人も肩を並べていたので、合戦に臨んで一度も不覚をとったことはなかった」と記述していることから、武士のみ(もしくは武士含有率の非常に高い軍隊)の兵数である可能性が高い。まぁ色眼鏡で味方を少なく敵を多く書いてるのは当然あると思うけど
48.名無しさん:2018年08月11日 18:59 ID:DvzHFlfL0▼このコメントに返信
※46
武士はまず徒歩の従者が従うんで、戦闘に際して「騎兵だけ」で構成された部隊が存在するかどうかというのと、「騎馬武者を集めた」部隊が存在するかどうかは、ちょっと話が変わってくる
だいたい史料で「騎」「馬上」と書かれているのは、身分としての武士を指していて実際に騎乗してない、なんてケースもたくさんあるから注意して読まないといけない
49.名無しさん:2018年08月11日 19:05 ID:W4t6B0jV0▼このコメントに返信
※48
後藤又兵衛や薄田兼相を抹殺した片倉騎馬鉄砲隊800騎を全部視する人間がいるとは
恐れいったよ!
50.名無しさん:2018年08月11日 19:08 ID:W4t6B0jV0▼このコメントに返信
全部視 ☓
全部無視 ○
51.名無しさん:2018年08月11日 21:16 ID:G6WbyHjD0▼このコメントに返信
※40
木曽馬って源平のころから馬産地だし
木曽義仲も馬乗ってるし
52.名無しさん:2018年08月11日 21:17 ID:G6WbyHjD0▼このコメントに返信
※49
竜騎兵なんかこけおどしもいいとこだろ
1発撃ったらあとはただの騎兵だぞ
53.名無しさん:2018年08月11日 21:47 ID:ogCVPaPY0▼このコメントに返信
富士の原野に集結して合戦やってたんだろうな…
54.名無しさん:2018年08月11日 22:17 ID:MaMOIYrQ0▼このコメントに返信
※44
まぁ個人の意見相違の範疇だとは思いますが、、、

日本でも、移動速度見ると、一日40km以上を一週間以上(太平記の畠山奥州軍)とか
徒士混じりでは不可能に思える移動してる話もあるんですよ、、、

まぁ世界的に見て、騎馬兵だけ抽出し運用(別働隊にする)することは一般に行われていて
日本ではソレが一般的すぎて記録に残さない(必要に思わない)可能性も大きいと思いますよ、、、
55.名無しさん:2018年08月11日 23:00 ID:th2wntzz0▼このコメントに返信
騎馬って言ったら突撃でいいんだよ。馬で轢く。跳ね飛ばす。踏みつける。
小柄だとかポニーだとか馬鹿にするけど、体重数百キロの物体がただ走ってくるだけでも脅威だぞ。
56.名無しさん:2018年08月12日 13:30 ID:5Q.m.Wbg0▼このコメントに返信
※55
実際に完全武装の武者乗っけて走らせたら
該当する馬が100Mくらいでバテたんだって
当時と今じゃ環境が違うのかもしれないけど
だから相当気が強い悍馬でないと乗せて走られなかった
後年になってもその伝統が残ってて
八カ国連合軍で中国に進駐した際も
「日本では去勢の習慣がないのか?」と
やたら気が荒い馬多くとても乗ってられないので
諸外国の兵の間では不評だった

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